早川 剛

絵にかける情熱 海を渡る

                            ─画家たちの心象風景を歩く⑨

 

    フジギャラリー新宿では、インテリアにマッチしたアート作品をご紹介しています。完璧左脳人間・原田が作家のみなさんに伺うインタビューシリーズ。今回は、大胆で力強い作品が印象的な早川剛さんです。

 

 

早川 剛さん

 

 

先生の似顔絵を描いて人気に

——— 早川さんとは、実は同い年であることが判明しました。

 そうだったんですね。僕らの世代特有の状況も、わかりあえますね。

 僕は、埼玉県草加市出身で、2000年に各種学校である武蔵野美術学園日本画科を出ました。記憶の限り、子どものころから絵を描いていて、中学校の時は、先生の似顔絵などを描いていました。似顔絵は、その人の嫌がる特徴を最大限に誇張するので、本人は「似てない」と怒るのですが、周囲は大ウケ、という、ふざけたものでした。

 

——— 似顔絵は、やる人とやらない人がいるようですね。

 今、中学生の頃に描いていたような似顔絵を描いてと言われたら断ります。嫌がられますから(笑)。今の作風に応じた肖像画や似顔絵であれば喜んで引き受けます。

  

 ——— なるほど、そういうものですか。それで、高校はデザイン科に進まれた。

 はい。ぼんやりと、絵を描いていたいと思っていて、絵を描く職業として、小学生の頃に自分が思いつくのは漫画家くらいでした。でも、ストーリーを考えたいわけではないし、中学生になって現実的に考えると自分がなりたい職業は漫画家ではない事に気がつきました。一方絵を描く仕事を得るためにどうすればいいのか分からない。それで、中学3年生の11月ぐらいに、突然絵の関係への進学を決心しました。担任だった教師も「早川は絵が得意だから、その方向に行ってみたら」と勧めてくれていて。両親からも特に反対はありませんでした。

 

 

《火炎旋風》727×606mm アクリル

 

 

美大予備校にいくためアルバイト

——— 高校のデザイン科の授業はどんな感じでしたか?

 実技の授業が主でした。3年生になると一般科目は国語、社会、英語、体育しかなく、あとは全部実技の授業。ただし、美大に受かるためには美大向け専門の予備校に行く必要がある事を入学後に知りました。デザイン科の授業は美大進学向けに作成されたカリキュラムではなかったためです。金銭的な事情で現役時は予備校に通う事は出来なかったため、卒業後アルバイトをしながら予備校に通いました。

 

 ——— アルバイトはどんなものをしたのですか?

 普通に、コンビニのレジ打ちなどです。76年生まれの僕らの世代は、学校はアナログ全開で、学校にパソコンで何かをできるような先生はいない。けれども、実社会では、デザイン界は特にIT化が進んでいた。だから本当はデザイン系のアルバイトがよかったのですが、パソコンができないからという理由で断られました。

 

 ——— 状況はよくわかります。私も就職してからパソコンに触る様になりました。

 今考えたら、必要なスキルがないのだから雇われるわけがない。苦労しながらもなんとか2年予備校に通ったのですが、美大にひっかからず、親もだんだん痺れを切らしてくるので、各種学校である武蔵野美術学園の日本画科に進みました。各種学校で日本画が選べるのが魅力でした。とはいえ、どちらかというとカルチャースクールみたいなところです。学歴という意味では遅れをとっていることはわかっていたので、在学中からコンペには積極的に出品していました。日本画の代表的な公募展である日展には2004年まで出品し、入選していました。

 

 ——— 当時の作品は、赤が特徴的です。

 

 自分が作家としてやっていけるのか、不安や悩み、当然ですけれども、それでも自分の未来に期待を持っているところもあって、そんな内的な感情を表現していたと思います。とにかく実績が欲しかったし、大きい作品が売れて欲しいと思っていましたし、実力を証明したいという気持ちがありました。

 

 

ウェブサイト開設からチャンス到来

——— 卒業後は?

 新聞の折り込みに入る求人広告を作る会社に入社し、仕事をしながら作家活動を続けました。デザイナーと呼べるほどの仕事内容ではありませんでしたが、キーボードは打てるようになりました。ですが、そのままだとデザイナーとしてのスキルが全く足りない。スキルが無ければ転職先も限られて、肝心の作家活動に支障が出る。スキルを磨く必要を感じました。独学でHTMLを覚えて作家としてのウェブサイトも作り、ウェブデザインの仕事に転職しました。補佐的な仕事ではありましたが、ウェブデザインのスキル向上にも繋がり、作家サイトも充実させていく事が出来ました。

 

 ——— それは当時としては先進的ですね。

 

 はい。それで舞い込んだ仕事が、映画「同じ月を見ている」※に使用する絵画の制作でした。

 

 

※映画「同じ月を見ている」あらすじ:

研修医の熊川(窪塚洋介)は幼なじみのエミ(黒木メイサ)と、結婚の約束をしている。そこへ、同じく幼なじみだった水代元(通称ドン。エディソン・チャン)が、冤罪で服役していた刑務所を脱走したとの知らせが入り、物語が始まる。3人を苦く甘い思い出につなぐのは、心優しいドンが描く絵。不遇の時を経て、画才を見出されたドンは、渾身の力を込め、燃え出しそうな赤と幾つもの月を描いた。同タイトルの 土田世紀作の漫画(1999年文化庁メディア芸術祭漫画部門優秀賞受賞)を深作健太氏が映画化した。2005年公開。

 

 

——— 最初のコンタクトは?

 助監督の方から「はじめまして」という件名のメールが届きました。正直、いたずらかと思いました。でも、メール本文を読むと監督は深作欣二監督の息子さんである深作健太さんで、「バトル・ロワイヤル」を撮った方。原作もたまたま連載当時に読んでいて知っていました。これをいたずらとみなして無視して、もし1年後に同じタイトルの映画が封切りされて他の人の絵が使われていたら、絶対後悔するだろうと思い、すぐに返信しました。最終的には深作監督自身にお会いして、やっと信じるに至りました。当時日本画家でウェブサイトを持っている人はほとんどいなかったので、たまたま情報が出ていた僕に白羽の矢が立ったようでした。

 

 

「炎を描いて」で抽象に開眼

——— まさに、IT技術が身を助けた。

 数人の画家に声はかけていたそうなのですが、最終的には自分に依頼してもらう事が出来ました。メインとなる192x130cmの作品には「炎を描いてくれ」と言われてびっくりしました。当時の自分は、人物画しか描いていなかったからです。人物を主に、背景に抽象的表現をするパターンだったのですが、人から要望されることで抽象表現を前に出すことに腰が動いたんです。

 

 

——— スケジュールはどんな感じでしたか?

 最初のメールが来たのが3月。4月3日にお話をして、作品2点の締め切りが撮影開始までの1ヶ月。さらに追加もあり、5月22日までに合計4点の作品を納めました。当時の制作ペースだと3ヶ月はかける大きさです。原作漫画には、木製パネルの裏側しか出てこないので、スタッフの方々とイメージをすり合わせていき、完成させました。締め切りに間に合うかどうか、不安で仕方ありませんでした。アルバイトも急遽やめ、寝る間も惜しんで描き、最後は徹夜で完成にこぎつけました。試写会にも行きましたし、公開後は映画館で何回も見ました。

 遠い世界、別の世界と思っていた俳優と一緒に、自分の作品がスクリーンに映されて映画として成立している、というのがとても不思議に感じました。実感が湧かない感じです。

 一番現実的に喜びを実感したのは、その後ネット上で、映画を見た多くの方が、作品について書いてくれていたことでした。ブログなどにもたくさんコメントをつけましたね。

 この作業を通じて感じたのは、自分は一人で黙々と作業するより、周囲と相談しながらやるのも好きなんだという発見です。以降は、オーダー制作も積極的にやっています。

 

 

2005年制作 192cm×130cm 杉板に日本画岩絵の具、樹脂

 

 

——— 映画での経験が作風に影響を与えましたか?

 それはもう、露骨に。人物画をやめるつもりはありませんし、こだわりもありますが、今は抽象メインで描いています。基本的に、絵を描く事で他者に認められたい想いが強いです。本の装丁でも、映画でのイラスト的使われ方でもいい。しかし、画材にはそんなにこだわりがありません。いまは「主に日本画」というところで、7割はアクリルで描いています。

 

 

左:藤本ひとみ著「士道残照」

右:使用作品「激情」30cm x 30cm 木製パネルに日本画岩絵の具、アクリル絵の具、樹脂

 

 

——— 最近の活動としては、中国で展示にも行かれたとか。

はい、伊東正次さん(日展会友)のご紹介で、昨年は河北省・石家荘市で「当代日本岩彩画作品展」に参加しました。最初はスペースの広さも分からず、不安だらけでしたが、体育館のようなスペースで作品を展示することができてとても嬉しかったですね。

 

 

——— 現地ではどんな受け止めでしたか?

 中国で日本画の展覧会の場合、親日な方が来られる事が多いので、おおむね好意的には感じましたが、なにせ中国語が分からないので細かくは分かりませんでした。今回はいわゆる販売という形ではなかったので、今後は大きなマーケットである中国で、販売のチャンスがあれば、と思っています。

 

 

インタビュー後記 ————————————

 今回の取材で話題になった映画「同じ月を見ている」は、2005年の公開。15年の時を経て、アマゾンプライムビデオで映画を探し出し、家にいながらにして、レンタルで観ることができました。視聴方法にも隔世の感があります。ちょっと強面な感じのする早川さんですが、この映画の中の、幼なじみに「おめでとう」を言うために全力を尽くした「ドン」の姿に重なりました。

(原田愛)